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脳汁置き場

アスペの呻吟愚タイム

漏れの常同行動だゾ!

認知症関連

オッス!オラ、慕情!(もはやゴクウで韻も踏まぬ有様であることよ)

 

認知症になると、常同行動(一定の行動を繰り返すこと)が生じるらしいんだけど、漏れにも、それがあるんですわ。それをご紹介いたす。誰も見てないけどね。

 

・散歩するときはいつも同じコース、いつも同じ時間にスタート

(コースが同じだと、タイムの変化で自分の体の変化も知ることが出来るから固定している。時間帯は、朝の日光を効率よく浴びることの出来る時間を選ぶと固定される。)

 

・毎日、リンゴを食べる。夕食はフルーツグラノーラとバナナで固定。

(漏れは白血球が少なめで、リンゴは免疫力を上げるので、食べることにした。普段、野菜が足りてないから、晩ご飯はせめて果物系にしたかった。また、フルーツグラノーラとバナナはカロリーがわかりやすく少なめで腹持ちが良いので。)

 

・太ももでドラミング行為をしがち。アゴヒゲをいじってソワソワ。

(多動だから。昔からやっている。)

 

・神社に入るとき、決まった入り方がある。

(ルーティーンとして始めた。)

 

・毎日、決まった時間に起床いたします

 

・毎日、決まった時間に就寝いたします

 

ホ、ホゲエエエ!!

 

単にアスペルガー症候群なだけではないか・・・ホッ・・・。

 

※自分がアスペルガー症候群だとわかってホッとするような感覚は一般的では無いとおもうぞ!

 

でも、物忘れは増えてるし、脳味噌も少し萎縮しておるんですわ。

 

だから、リハビリ的な行いは、します。

漏れの孤独生活

孤独

漏れは、ニートでございます。

 

しかも、無能ですので、youtubeでも動画で30再生を稼げればそれで上出来だと思えるような、やっすい自尊心で生きている。

 

仕事が無いので、一日中、好きなことをしている。好きなことをしているけど、

世間の目が厳しく、近所の人からは信用されていない。そりゃあそうで、よくわからん働いてない若者をいきなり高く評価する人がいたら、その方が驚くよ。

 

近所からは白眼視、友人は全員死亡(社会に出たということ)。

 

日常で、漏れと接してくれる人は、ほとんどいない。だから、かなりおとなしく過ごしている。でも、寂しくなるときもある。それで、ブログをやることにした。

 

無能だから、ツイッタアやヨウツベなどでも、良さを発揮できない。なぜか?だって、全然、努力して生きてこなかったからね。前前前世、全然努力してない今世。

 

しだいに無力感が生活に蔓延する。「どうせ動画作っても、5再生さ・・・」「どんだけツイートしても、よくて、2ふぁぼさ。。。」

 

「それなら、もう投稿もツイートもしないや・・・もう、テキトーや・・・」

 

そうなって、努力どころか、行動自体が減ってゆく。そうして一人で考え込むと、様々な想念に襲われるが、とりわけ、ネガティブなものが多くなる。

 

「何もしないで家にいるなんて、キチガイじゃないのか!?」

「自分では楽しいと思ってるけど、何も意味が無いのではないか?」

「自分では得意と思ってるけど、ぜんぜん下手なんじゃ無いのか?」

 

そして、何より、

 

「誰も自分が作ったものを見てくれないとしたら、何のためにやってるんだろう?やること自体が楽しいのは事実としても、それなら発表する意義とは?」

 

こう考えると、かなりの虚無主義的な考えになってしまう。結局、何もかもが、食事のような、刹那的で受動的な喜びには劣る、と考えてしまうようになる。食事は、体をつくり、体調を整えるから、まだ役割がある。目の病気でも無いのに、ずっと目薬をさしているだけのように思えてきてしまう、生活のすべてが。

 

数あるヒキコモリ本、孤独についての本を読んで、孤独であることを完全に納得しようと思っていたけど、どうしても他人に伝えたくなるような性質の考えが浮かんでくる。ちょっとしたダジャレを思いついても、それで誰かを笑わせられたら、それが嬉しいと感じる漏れの脳だ。

 

本性は、ヒキコモルのが絶対的に好きなわけでは無いと思う。自分にとって好ましい人であるなら、適度な間隔を設けた上で、会いたいと思う。野良猫たちでさえ、毎日会うのは、ちょっと会いすぎでは?と思う。

 

仕事をしていた時は、木曜日には力が尽きていた。同じ場所で、同じ人たちにあって、同じ事をやり続けると、神経がクタクタになる。それでいて、誰とも話さない日が続きすぎると、なんだか焦燥感に襲われる。

 

もし労働をするとしたら、自宅で好き勝手にやることで、それでいて外部との接点はある、というようなものしかない、と思っている。

 

なんとかお金にならないか、と思い、動画を作ったりしているけど、いっこうに金になる気配は無い。小説を書いたら?みたいなことをたまに言われることもあるけど、なんだか、ひきこもりイコール作家というのは、ありきたりな気がして、それでやる気を削がれる。何より、いかにも小説が好きそうな人、得意そうな人が書いた小説が、自分なら読みたくない。実際に好きな人、得意な人が書いたのは問題ない。

 

神社の絵馬を見ていても、面白い絵馬は、絵馬らしくない絵馬だ。型にはまってないものが好きだ。だから、高校生の時、中原昌也の小説を読んだときは、爆笑しました。これで金がもらえるの?と。今となっては、金を取っていい文章では無いから、発表する価値があったんだよね、と思う。

 

今の時代は、誰でも文章を発表できるから、なんでもありになってると思う。プロとアマの境界線が、曖昧な感じ。まあ、いいや。そんなことは。

 

今年で31歳になるけど、いまだに自分探しをしています。

どうせ無能として死んでゆくのなら、ダメ元で、好きなことをやってみようと思っている。どうせ、いつか死ぬし。仮に死ぬ前に「おれ、何も成し遂げない人生だったなあ・・・」と後悔したとしよう。それが何なのか?思った次の瞬間には、死んでいるから、後悔は消えるのじゃ。何かやればまだ可能性をこじ開けるくらいのことには、なるかもしれん。

 

もちろん、自分勝手に生きようとするには、お金はいる。障害年金の支給が終われば、死亡である。仕事が無いので、女性と付き合うことも放棄せねばならない。いまもそうだけど、世間からの白眼視にも晒される。友人も消えてゆく。リスクも多いんや。

 

そう思うので、最近は、パコデルシアとか、自分の才能を信じて努力を続けた人は偉大だと思うようになった。サネッティもそうだ。入団テストかなんかに失敗して、一時期はクラブに無所属、でも頑張ってたら、気づいたらインテルへ。かっこいいね。

 

サネッティなら、「もっと頑張ってみたら?」みたいなことを言いそうな気がします。

 

どうせ、いつか人は死ぬからね。

 

 

ゲス野良猫、交尾失敗。

野良猫

ワタシクの、漏れの、我が輩の数少ない趣味として、野良猫へのエサやりがある。

野良猫を見ていると、単純に可愛いし、猫を飼っていた友人が多いから、懐かしい気になる。ただ、飼い猫と野良猫は違う。野良猫の大半は去勢をされていない。。。そのことを、今日は思い知らされたね、痛切に。

 

いつものように、散歩のコースにあるネコストップに行ったら、ビビリのヨモギ色猫が、漏れからエサをもらうために、木箱からしゃしゃり出てきた。こいつを撫でようとすると、かなり大げさなリアクションで驚きつつ、逃げてしまう。逃げすぎて、壁に頭をぶつけていたこともある。リアクション芸人の素質がある。

こいつとの距離感は、やや間隔を置かないといけない。間隔はあるけれど、やりとりは出来ている。何より、ヨモビビリがこういう距離感を望んでいる。なんだか、人との距離感を学ぶことにも応用できそうだぞい!

 

そのあと、ネコストップのボスが出てきて、ヨモビビリから毎度、エサを強奪する。ボスはとても下品で、だらしないので、日によってはひどい悪臭を放っていて、今日はむせかえるような、便臭、フェロモン臭を放っていたから、漏れは離れました。

 

その後、漏れが満足して帰ろうとしたときのことでした。

ボスが、生後3ヶ月ほどのメス子猫に交尾しようとし始めた。

最初は、ボスが子猫を毛繕いし始めたから、「オス猫でも、母親役みたいになるのかな?」と思ってみてたが、徐々に雰囲気はピンク暖簾色を帯び始めた。

 

首筋を甘噛み。そして、メスの性器周辺の臭いを嗅ぐボス。その顔つきは、まさに迫真のビーストフェイスだ。非常にネットリとした、スチャラカしたイージーリスニングでもBGMに流れていそうな、普段、僕が早送りにすることの多いような場面のようだ。

 

生後三ヶ月のメス!人間なら何歳であろうか。まず10代より上ではないことは間違いないし、漏れの記憶では、3ヶ月では生殖活動がまだ始まってないと思う。

 

ということは、人間でいえば、U-13くらいの年代の可能性もあり・・・。なんという、ペド・キャットなのだろう、ボスは。

 

だが、メスの子猫は、断固として交尾を拒否し、絶叫!ニャアアー!マウントポジションを取るボスから離れていた。

 

漏れは、その一部始終を、「これでアニマルプラネットと契約しないでも済むわ!」というような、謎のお得感を感じながら傍観していた。もし、交尾が成立していたら、漏れは児猫ポ法に反するというか、倫理的なきまずさを覚えながら、帰路につくことになっただろう。でも、勇気のあるメス子猫が見せた気丈な態度、そしてゲスなボスが交尾を拒否された後の真顔の滑稽さを見て、なんだか楽しくなった。

 

野良猫が街に住み着くことには、賛否あると思う。漏れは、猫とは共存すべきと思う。あんな毛だらけの、小さな生き物、それも野生を依然として保持してる奴らが、コンクリートの建物ばかりの地区に生きているというのは、なかなか奇跡的なことに思える。

 

野良猫を観察することで、学べることも多いし。

 

ただただエサを食って、昼寝をして、生殖活動にあけくれるだけの生き物だ。

それでも、それが生き物の基本なんだから、誰にも非難はさせない猫だ。

いっぱい生まれて、いっぱい死んでいくから、生命についても学べる。

 

ペットでは、サイクルの早い生き死にについては、学びにくいと思うし。

 

一匹の猫に愛情を注ぎすぎるのは、完全にエゴだと思えてきた。野良猫なら、とにかく出会った猫が全部、エサやりの対象になる。

 

世の中、楽しいことばかりでは無くて、しんどいこともたくさん潜んでいるということを、思い出しやすくなる。

 

それでも、なるべく、かわいい猫には長生きしてほしいと思う。まだ、悟りが開けてないから。

 

南無!南無!

見知らぬ天井(認知症により)

認知症関連

自分は30歳だけど、もう痴呆になってしまったのではないか、そう思うことが増えました。以下、自分が痴呆に思えた瞬間を列挙。

QRコードのことを、QRLコードと言った
・カレーの「ナン」という単語が出てこなくて「ネー」という自分語を作った
・今日は日曜日なのに、月曜日かと思った(見当識障害?)
・身なりに気を遣わなくなった(ヒゲを剃らず、チェルシーのレプリカコートで外出)
・街で知人に急に出会ったとき、その人が誰なのか、候補が絞りきれず、言葉に詰まった(その人によく似た知人がいるとはいえ)
・「尋問」という単語が出てこず、事情聴取という言葉で誤魔化した
・「私有地」という言葉が出てこず、空中を眺めて指をクルクルして誤魔化した
・洗濯物を取り出すのを忘れることが増えた
・知人の名前を思い出すのに2時間かかった
・毎日、同じものを食べるようになった(リンゴ。健康目的で。)
・読んだ本の内容を他人に説明できない。
・過去に一度読んだはずの本を再読して、そのことに読了してから気づいた
・お風呂でシャンプーしたかどうか忘れることが多い(物思いに耽るから。10代の頃からよくあった)
・言葉が間違ってる気がして、不安な単語で立ち止まる(カスタマーサービスカスタマーサービスでいいのか?カスタマーセンターとかお客様なんとかセンターなのではないか?ということを話しながら考えてしまう)
・テレビを見なくなった。(見ててもなんだか辛くなる)
・判断力が落ち、目標がコロコロ変わる(ヒップホップだ!→テクノだ!→いや、パンクだ!。これはADHD的な発想の飛び交いにも思える。)
・本を読んでも感想が出てこない(「鋭かった」など、直感的なものしか出ない。小学生並みどころか、息切れした人に本を読ませたみたいな言葉しか出ぬ。)
エトセトラ。

以上のようなことが、起きた。言葉が出てこないことが特に多いように思える。言葉の出にくさ自体は、5年前くらいからよくあった。言葉は出てこなくなる一方で、映像的な記憶は長持ちしている。自分の中で印象的だった場面とか、どうでもいい場面も、ふと思い出されることがある。だから、言語の記憶に問題があるんだろうと思う。

CTスキャンでは、前頭前野のあたりが少し萎んでいた。海馬や扁桃核は無事だった。ということは、記憶自体はまだ保持出来ているんだけど、その運用に混乱が生じているということだろうか。

基本的に漏れは、ひきこもりであるから、他人に向かって自分の考えや感情をわかりやすく発信するということをしなくなりました。うまく言語化しなくても処理できることはたくさんある。たとえば、散歩の時、どういう気持ちなのかとか、疲れた気持ちは、自分の中で感じ取れたらそれで問題無いと思う。太陽の光が木の隙間からこぼれている眩しさだとか、あの日見た花の名前とか、偶然見かけた動画の女優の芸名は誰かに説明しなくて良い。「あ、おあああ(太陽光が、あたたかい)」とか、「ぬん!(ゾンビの首を、刎ねました)」とか、「っしゃああああ!!!すげえ!すっげえ!(アッコがヒグマを素手で瞬殺、勝俣大興奮)」でいい。

 けれども、そのような自分だけの言葉で生きてる状態が長引くと、他人と話すときに困るようになる。今まで言語化されていなかった感覚を、いきなり言語化する機会を作られてしまうから。「狩野さん、散歩どうでしたか?」、「あー・・・うんとね。えっとね・・・おあ、おああ、、ウボァー」という事態になります。

しかも、それが現実での会話でないと、さらに、脳が衰えるみたいな記述を見かけたような。本当にそうなのか?と思うこともある。孤独な生活をしながらも、知的な活動を続けられている人はいるはず。まあ、でもそういう人たちは、知的な活動をバリシャリしているから、それで衰えてないのか。漏れみたいに、人とも話さないし、知的な活動を放棄して、インタアネットでくだらない動画をボンヤリ見続けたりしてるのとは、ワケが違うか。

というような危惧があったので、本能的にも、人と会話する機会を作るようになりました、昨年の秋くらいから。今のところの実感としては、良い効果が出てきた感じがする。
ひきこもり真っ只中の頃よりは、今は考えがまともになった気がする。人前に出るので、すごくおしゃれではなくても、自分なりに人前で着る感覚のものを用意するようになった。散歩をしているときに、市内は敵だらけ、という感覚は無くなってきた。岩見沢にも面白い人や優しい感じの人もいるのか、という新鮮な驚き。

脳の衰えは、今は防げているレベルだと思う。ただ、人前に出たらそれなりにストレスも生じるので、適度なストレスならむしろ良い効果があるだろうけど、あんまりしんどいと逆効果かなという恐れもある。老いに関係なく、若い頃から学校とかではストレスマックスの時代しか無かったので、おうちでひきこもることは、防御策でもあるのだ。ひきこもることと、社会的な行いをすることのバランスを、今は模索しています。

ひきこもれる間は、好きなことをやりまくるという気持ちでいます。好きなことには集中できる環境だけど、ひきこもりすぎて脳がおかしくなったら、それは嫌だし、やりたいことにも支障が出てしまう。だから、恐れているのであります。

ただ、やりたいことは先述の通り、フラフラしておるので、努力の方向が散逸な状態でもあります。なぜそうなっているかというと、好きなことをやるだけではなくて、好きなことでうまくやって、それで社会的にも認められたいという、下心があるからでヤンス。

好きなことガーッとやれば良いと思うけど、もしうまくやったらマネーがもらえるかもしれないし、ひきこもりではなく、何らかの作家になったら、世間体は良くなると思う。そう思うから、社会的に認められないような趣味のことは、控える感じになっている。それがいいのか、悪いのかね。人に認められたいという気持ちは、悪いことでは無いと思うけど。認められないときに、辛いから。