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脳汁置き場

アスペの呻吟愚タイム

10年ぶりの小林秀雄

孤独

19歳や20歳の頃に小林秀雄をなんとなく読んだけど、そのときは現代文に小林秀雄の文章が出題されかねないからという理由で読んだり、友達が読んでたからという、自分の動機からは遠い理由で読んでおりました。そのときは、モーツァルトについてのアレを読んだけど、ほぼ理解してなかった。

 

今回は学生との対話をしてる文庫が出ていて、最果タヒが売ってなかったので、なんとなく買った。動機としては、電車やバスで待つことになったからキヨスークで週刊フラッシュでも買おうと思うようなものと寸分違わず、スンドゥブ食わず。(食わず嫌い)

 

しかしながら、今回は、さすがに10年の間に自分の見聞は5ミリくらい広まったので、ほんの少しだけ、小林秀雄の脳梁に橋をかけて、その世界の入り口に生えてる苔の深い青さくらいは、わかったつもりになった。つまり、本質的には微塵も理解せず、ミシンも破壊せず(お利口さん、 he got sun)

 

改めて、小林秀雄の守備範囲を見てみると、けっこうキョロキョロしているように思えた。ベルグソンの考えが核になってるように外側から見える。漏れはベルグソン読んでも全く何もわからなかった。解説本もそれこそ、2008年頃に図書館で借りて読んだけど、???という感じで、その時期はそれよりもガンプラを作っていた。ガーベラテトラ

 

晩年に本居宣長を長期連載するものの、そこに至るまではいろんなテーマを取り扱っている。それがなんだか、ADHDあるいはアスペルガーの兆候に見えた。ADHDなら、多動的思考で興味がコロコロ、アスペルガーなら、アイデンティティの拡散でやりたいことがハッキリしないというような感じ。

 

対話を見ていても、若い頃は目標・理想なかった、とか、自分を見てても自分はわからん!というような、自分を探索したような話しぶりが目立つ。

 

そのことを感知すると、少なくとも10年前よりは、言ってることが頭に入ってきた。10年前は、小林秀雄、関節技が得意そうな顔してる・・・くらいの共感しか無かった。今は、漏れも、自分自身を見つめても何もわからず、自分なのに自分が影のようだなあと感じていた。これだあ!と思っても、確証がなく、すぐ気持ちが変わる。これやりたい!は「興味がある」くらいの意味であり、すぐ飽きる。ガンプラだって、ガーベラテトラ以降は、作ってない。

 

歴史は鏡なんや!過去の自分は他人なんや!というのを読むと、他の人の自伝を読んだときの謎安心感、過去の自分の興味を振り返るときは何らかの確信があることと対応するので、納得できた。

 

小林秀雄の評論が、どちらかというと小説に近いのは、そういうわけなんやろなあ、と。つまり、評論自体が、評論してないで、評論される側になってる。見せかけは評論、中身は芸術なのだなあ、と。苦しさ、不安、迷いをぶつけて、調べて、読んで、書いてたのが、小林秀雄なのか、と。それがなぜか、作ったのが評論だったから、ややこしいという。

 

やっぱ、就活の自己分析への違和感、というか、恐怖で自己崩壊を迎えたのだけど、その感覚は当たっていたのかな。箇条書きにしたいできるアイデンティティなんて、無いでゴワス。

 

小林秀雄ですら、晩年まで探索していたとするならば、小林秀雄の脳味噌活動量に比べて1パーセントくらいしか脳の動かぬ漏れの自分探しが、かなり時間がかかってしまうのは、やむをえぬことだ。個性が無いのが個性、と、ジムカスタムのような自己認識をするしかない。頭カラッポのほうが、夢詰め込める・・・そのわりに、知らんことが多すぎる。

 

自分も、本居宣長が対象ではなくとも、参考に出来る人を見つけたらいいのだなあ、と思った。サッカーなら、サネッティネドヴェドあたりが、アスペ感を出している、特にネドヴェド。しかし、どちらも既に引退しているし、どういう人なのか伝える資料も、そんなに豊富では無い・・・グヌウウ!

 

まあ、いっか・・・(投げやりンゴ)